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幕末維新期の佐賀

危機感バネ 海外進出に意欲

1851(嘉永4)年、直正は自身の心境を漢詩に託した。
「海南の風に乗って、はるか万里に向け飛び出したい…」。伊達政宗の征南詩に次韻しつつ、思いは高ぶる。「西洋世界を一変させ、わが国の風土を知らしめたい」―。
この前年の1850(嘉永3)年、佐賀藩は城下・築地(ついじ)(現在の佐賀市長瀬町)に国内初の反射炉を築造し、鉄製大砲の鋳造に着手。警備に当たっていた長崎の伊王島と神ノ島に、台場(砲台)を独自に増強しようとしていた時期である。直正の詩には、海外進出を念頭に置いた豊かな国際感覚がうかがえる。
欧米列強のアジア進出を象徴するアヘン戦争(1840~42年)から10年。長崎警備の増強に消極的な幕府とは対照的に、佐賀藩は軍備増強の歩を進めていた。
直正を突き動かしたのは、強烈な危機意識だったといわれる。
藩にとって最大の任務だった長崎警備は、最新の海外情勢を読み解く手がかりでもあった。産業革命によって鉄製大砲と蒸気船をわがものにした欧米諸国は植民地の拡大を競っていた。
1844(天保15)年、直正は長崎に来航したオランダ軍艦パレンバン号に乗船。藩主自ら外国の軍艦に乗り込むこと自体、異例のことだったが、鉄製大砲を積載した巨大軍艦の先進的な装備は、大きな衝撃を与えた。
欧米列強の「砲艦外交」にどう立ち向かうか。西洋文明を実見した直正が出した答えは、鉄製大砲と蒸気船などを自らも造り、強力な軍備を持つことだった。これがやがて、幕末期の日本で絶大なプレゼンス(存在感)をもたらすことになる。

教育改革 多様な人材育成

佐賀藩の躍進を支えたのは「教育改革」だった。
直正がまず力を入れたのが藩校「弘道館」の充実。幼少期から薫陶を受けた儒学者古賀穀堂(1777~1836年)の教育に関する意見書「学政管見」に基づく形で、敷地を3倍、予算を7倍にした。財政難にあえいでいた当時の藩にとって、思い切った政策だった。
弘道館は現在の小中学校に当たる通学制の蒙養舎(もうようしゃ)と、高校・大学に相当する寄宿制の内生寮、通学制の拡充局で構成。明治以降に確立する学制の先取りともいえる教育システムだった。

佐賀藩の藩校「弘道館」で使用された教科書
(県立佐賀西高所蔵・県立博物館寄託)

上級家臣から手明鑓と呼ばれる下級武士まで全藩士の子弟の入学を求め、優秀な成績を収めれば身分にかかわらず抜てきすると明示。家格で役職が決まる当時の門閥制度に風穴を開ける改革だった。一方で25歳までに「免状」を得るなどの成果を収めなければ、家禄を減らし、役人に採用しないとした厳しい「文武課業法」を制定し、徹底して勉学を推奨した。
こうした教育基盤を背景に、佐賀藩は西洋の科学技術吸収に乗り出す。幕府が「洋学所」を設ける4年も前の1851(嘉永4)年に蘭学寮を設置。弘道館に学ぶ16、17歳の、それも主に次男や三男、家格の低い藩士の子弟から秀才を選び、物理や化学などを研究させた。
1854(嘉永7)年、日米和親条約の締結で日本が開国すると、技術革新の中心を担っていた米英の情報がもたらされるようになる。直正は蘭学寮に学んだ秀才を選抜し英語を学ばせ、1867(慶応3)年には、他藩に先駆けて英学校「蕃学稽古所」(翌年「致遠館」と改称)を長崎の佐賀藩諫早家の屋敷内に創設した。
佐賀藩が力を注いだ「人への投資」。それは国内初の鉄製大砲の鋳造に成功するなど、国内随一の近代的な科学技術力となって結実するが、真価を発揮するのは明治維新後の国家建設においてであろう。北海道開拓に貢献した島義勇、後の日本赤十字社の創設者佐野常民、学制や民法制定に関わった大木喬任、総理大臣を2度務めた大隈重信らを輩出した。
佐賀藩の教育改革とは、時代の変化に柔軟に対応できる多様な人材の育成でもあった。

鉄製大砲、蒸気船… 圧倒的な科学技術

佐賀藩は西洋の科学技術をいち早く取り入れ、近代化のトップランナーとなった。欧米列強のアジア進出という「外圧」に備えた軍備増強の必要性からだったが、高い技術力による数々の成果は、その後の日本が目指す「技術立国」をほうふつとさせる。

【築地反射炉(ついじはんしゃろ)】

佐賀藩が1850(嘉永3)年、現在の佐賀市長瀬町に築いた「築地反射炉」は日本初の反射炉。佐賀藩のみならず、日本の近代化の出発点となった施設だ。
反射炉は、鉄や青銅などの金属物を高温で熱して溶融・精錬するための装置。炉の天井に熱を集中し、その輻射(ふくしゃ)熱を利用することから反射炉と呼ばれた。
築地反射炉建造の目的は、当時主流だった「青銅砲」よりも強力な「鉄製大砲」の製造。佐賀藩は試行錯誤を重ね、1852(嘉永5)年、日本で初めて鉄製大砲の鋳造に成功した。
1853(嘉永6)年のペリー来航を機に、幕府は海防の重要性を認識し、鉄製大砲の整備を急ぐが、当時、鉄製大砲を造れたのは佐賀藩だけ。佐賀藩は幕府の注文を受け、新たに「多布施反射炉」を設け、鉄製大砲を鋳造した。国が地方に援助を求めるのは、昔も今も、極めてまれなこと。幕府の威信が失われても、鉄製大砲の魅力は捨て難かったのだろう。それだけ、佐賀藩のプレゼンス(存在感)が高かったことの表れでもある。
その後、佐賀藩は韮山(静岡県)や萩藩(山口県)の反射炉建造も支援し、製鉄技術が日本中に広まるきっかけにもなった。

「築地反射炉絵図」 公益財団法人鍋島報效会 所蔵

【凌風丸(りょうふうまる)】

国内トップだった佐賀藩の技術力を証明する史実の一つが、日本初の実用蒸気船「凌風丸」だ。世界文化遺産に指定された佐賀市の三重津海軍所跡で1865(慶応元)年に造られた。
当時の船は帆船が主流。鍋島直正はこれを、蒸気が持つ熱エネルギーで進む「蒸気船」に切り替えたいと考えた。蒸気機関の研究にいち早く着手し、長崎に来航していたオランダ船なども視察。また、オランダや英国から多くの蒸気船を購入した。理化学研究所「精煉方」の主任だった佐野常民を責任者に充て、凌風丸の建造を実現させた。

「凌風丸絵図」 佐嘉神社 所蔵

【医療改革】

直正は医療改革にも力を入れた。
世襲が当たり前だった医者に免許制度を初めて導入。また、不治の病だった「天然痘」の根絶を目指し、1849(嘉永2)年、侍医の伊東玄朴や大石良英らに命じ、嫡子淳一郎に種痘を試した。これが日本における牛痘による予防接種の始まりとされる。自らの子に種痘を試すことで、その効果と信頼性を世に示し、種痘普及の流れをつくった。